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激論! いじめ 自殺 と日本の教育 ~朝まで生テレビを見て~ [意見や感想]

 一応朝まで見ていたのに、寝ぼけていて半分内容が吹っ飛んでいたため、ビデオ録画していたのを見て感想を書きました。

 さていじめ自殺が急増している事に対して、多数の専門家達が討論した今回の「朝まで生テレビ」ですが、途中から「日教組」をいじめる番組に変わっていないか?と思いましたw 特に「伊藤玲子」の日教組に対する恨みは素晴らしいもので、何でも悪い事は日教組が原因だそうですw何考えてるんだこの婆さんは・・・。

 さて最後まで見ていて、今回一番私の考えと似ていたのは「喜入克氏」でした。この人の考え方が一番今の現状を表していたのではないか?と。去年まで現役高校生であった私から見て、イジメ→自殺とは直ぐに直結しないのではないか?また自殺は苦しくなって生きる希望を失ったから行ったのでなく、一種の仕返しであったのでないか?と考えています。

 さてイジメを無くせるか?という問いが有りましたが、これに対しての答えは「無くす事は不可能」であると私は思っています。そもそもの問題観点から彼らは取り違えており、社会人になってからも日常茶飯事にイジメが行われている中で、学生だけが無くすことなど到底不可能である。という事である。そもそも子供は大人を移す鏡で、結構親に似るものです。保護者同士での虐めがある中で子供たちの間だけでどうして無くせるかと?逆に問いたいものです。また虐めが私の学校では一切ありません!と言っているような学校は「隠れてるだけ」なんですよね。お前らが見て無いだけだと。 

 私が常々考えている事ですが、「いじめ」を一まとめに考えている時点で間違っていると思います。そもそも学校で行われているいじめの中には「暴力を伴うもの」「精神的苦痛を味わされるもの」「思い込みからいじめだと本人が錯覚しているもの」と大まかに私は分けています。暴力を伴うものはそもそも「いじめ」ではありません。「傷害事件」です。殴って虐めた。で相手が怪我をした。学校内で解決した。こんな事があればその時点で学校側がおかしい。怪我をさせた時点で立派な傷害事件として警察の管轄になるからです。こういった問題は学校の品位とかのレベルでなく、警察・弁護士を挟み「学校の管轄外」で判断を下すものなので、それに至る経緯は別として警察に通報するのが第一でしょう。つぎに「精神的苦痛」ですが、これが今回大きく取り上げられ、自殺に至っている原因?と考えられているものですが、こんなものいつの時代だってありますし、無くなるわけが無い。もちろん弱いものいじめは悪いものですから、学校側が「いじめは悪だ」といった教育も必要でしょう。しかしいじめの原因で1対多数になった場合、必ずしも1に非が無いと考える教師人が多い。ここも問題です。多数につく教師が悪いと言っていた知識人もいましたが、あからさまに1が問題を起こしてその結果全員から無視され、その1がいじめだと訴えても他の多数から見れば「はぁ?」モノですし。要するにこれが先ほど3つに分類すると書いた「思い込みからいじめだと本人が錯覚しているもの」です。これは性質が悪い。どうしようもないのですから。教師が注意すれば、その1に対して他の多数は恨みを持ち尚関わらなくなる。で1はその状況をさらにいじめと感じる。といった悪循環が起きます。こうなると誰が手を入れても止まりません。

 親が子供の事を理解しているか?という質問に「私は子供の事が解っていました」といった人が居ましたが、解ってる訳が無い。すべてを親に曝け出す子供なんて殆ど居ません。誰だって親に対して秘密を持ち、子供たちの中で共有するものがあります。その隠して共有しているモノの中にイジメがあるとするならば、いじめは親から見ても解りません。発見出来るものではないのです。よって教師が「生徒同士で虐めがあったようだ」いった発言を本人が自殺した後に言った場合、大抵は突然なんだと思います。相談していたとかであれば別ですが。「いじめアンケートにそういった事実は無かった」と報道されていた事もありましたが、イジメアンケートに虐めの事実を書くなんて事はまずしません。これに虐めの話などを書くと全校集会で全員説教などになる可能性があるからです。誰が書きますか?いじめられている本人まで怒る集会に出たいと。

 いま自殺が多く報道されて居ますけど、偶々世間に目に出ているだけなんだと思ってます。今が多いわけで無く、元々こんなもんなんだと。また教師が生徒が「自殺する!」と言ったときに「死ぬな!」と言わずに「だったら死んでみろ!」と言ったほうが良いみたいな事を言っていましたが、そんなのケースバイケースだろうと。本当に思いつめていて教師に自殺しようか?と聞いた最後の頼みに「だったら死んでみろ!」と言われたら、そりゃ絶望して死にますよ。だから言い切ってはいけないものだと思います。

 教師の質が落ちてきている といった内容の話もありましたが、私が思うに教師の質は変わって居ないと思います。教師の質が落ちたのでなく、周りの質が上がったのだろうと。 一昔前であれば、教師は大学を出た立派な人 としたイメージがありました。しかし今どこ行っても大卒なんて溢れて居ますし、こう言っては悪いですが、教育大学をでて教師になった人が、両親共々東大を出ている子供を教える場合、親は教師を甘く見ると思います。なんだ教育大かと。

 これが教師の質が落ちたとか言っている要因のひとつで無いのかと?これであれば解決法は無いです。親の心の持ち様なんですから。

 総合学習に触れます。(いじめと関係ありませんが、話題に出ていた為)今世間では総合学習は間違いであったと言った内容の話が数多く出ており、寺脇研が攻められていましたが、私は彼の理想は正しいものであったと思って居ます。昔は仕事(社会)が身近にあった、しかし現代の子供は鳥かごに入れられたかの様に社会が見れて居ない。そのために社会経験をさせよう!また自分で学ぶ意識を持つような授業を作ろうと言うものが総合学習であったはずです。しかし現場はこんな事を言われてもたぶんそれをこなす事ができなかった。何が社会を見せるものなのか?何が生徒のやる気を出させ、自ら調べるといった意識をもたせるのか? 私が通っていた中学校は、札幌市のモデル校(聞こえは良いけどたぶん実験校)だったので、他の学校より総合学習の導入が早かったのですが、大きなテーマを与えられ、それについて自分達で調べて発表する。といった内容でした。これは非常に有意義で、私が人前で自分の研究結果を発表するといった貴重な経験をでき、プレゼンテーションの基礎を学ぶことができました。高校へ行った後も総合学習は有ったのですが、ただどっかから人がきて話を聞く とかそんな内容のものだったので、中学校のほうがよっぽど質が高い!と感じたものです。私が入った中学校は付近の中学校とはだいぶかけ離れた現状の学校だったと思います。校則が無い(制服を着て学校に来いぐらいはあったが)事や、新しくできた学校なので教師が若いなど、他の学校より「社会の現状に近い」事があったからだと思いますが。

 結局総合学習は現状では扱いきれない内容のモノであったのだと感じました。(高校では)ただ、使い方が良ければ、これ以上に無いすばらしい授業であったと今でも思っています。

 さてずいぶんとダラダラ長く書いてしまいましたが、結論が出る内容の事ではないのでまとめは書けません。ただ今回この番組を見て「考える」といった事、同じ番組を見た人同士で「討論する」事が出来れば、尚素晴らしいんであろうと。私の周りにはちょっとそういった話についていく人が余り居ないので語り合えないのが残念ですが。 モノを考えてそれを表現できるようになる事が出来る「ブログ」は改めて考えると凄いものだなとシミジミ感じながら今回の内容を閉めさせていただきます。質問等はコメント欄にお書きください。またメールでの質問等の希望がございましたら個別に対応させていただきます。居ないでしょうけど。


2006-11-26 18:22  nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(4) 

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トルサル

小さい字でこれだけ書いてありますと、関係者に近い人が主に読むのではと思いつつ、自分は最後まで読ませていただきました。なかなかない視点からのご指摘が多いと思いました。「現代の子供は鳥かごに入れられたかの様に社会が見れて居ない」とありますが、日本の大人もほぼ全員が「ことば」を知らないために、「かごの中の鳥」のように「世界」が見えてないように思えます。現代は「こともが社会に位置づけられない」のと同様、親御さんも教育関係者も官僚も政治家も日本人全体が「言葉」が出来ないために自分自身を(世界に)位置付けられないで居るのではないでしょうか。犯罪も、自分が社会の位置にいるかと分かれば不安も少なくなり、我慢をし努力をし、犯罪が少なくなるかも知れません。要するに鎖国をした島国根性から抜けきれないでいるから、先取の行政が出来ないのでは?隠蔽体質もなくならないのでは?ぼくは、隠すことは一番いけないように考えます、それはいつまでたっても沼地に足を突っ込んでいるようなものです、しっかりした足掛かりがいつまでたっても得られないと思います。失敗、事故を人に知られることは恥ずかしいことですが、あとで国民の信頼関係を失うこと、国民に不信感を抱かれることを考えれば、進んで公表し、進んで真剣に対処したこと発表すれば、却って信頼関係が深まる場合もあると思うのです。ですから「この位のことは表に出ないであろう」と高を括らないことです、そうしないことが理想です。そういう社会にするには『再チャレンジ』の出来る社会の創出も必要でしょう、社会のいろいろな分野での多様性も必要でしょう。でも残念ながら、まだ日本ではその雰囲気からほど遠い。どっかの国では副総理にあたる人が猟銃で領友を誤射したアホ中のアホの事件がありましたが、やろうとすれば隠すことが出来たはずですが、あえて行政府から発表したのは、隠してもその場かぎりで、いずれ裏話とし流布したり、あるいは新聞に嗅ぎ突かれて表沙汰にされるかも知れない、それよりもどんなアホな失敗でも、一番大切な国民の信頼を、それなりに世界の信頼を失いたくないからではないでしょうか(ここは、我田引水的に政治的な話題は避けさせていただいて)。恥を殺して、自らの非を公表する勇気が持てる国にすることが必要ではないでしょうか、これは政治家、お役人がまずやることです。これを考えると、これからの日本の道のりは長い長いと言わざるを得ません。
by トルサル (2006-12-11 11:34) 

ニャソ

私の駄文を最後まで読んでいただき、また感想をいただきありがとうございます。日本という国は日本語から代表しますように「奥ゆかしさ」を追求してると思っています。ここが欧米との最もな違いで、物事を「Yes/No」だけではない言い回しや、本質が解りにくく、なおかつ「はぐらかす」といった手段が長年にわたって続いた結果「隠蔽体質」や「島国根性」といったものが国民性として出てきたのではないか?と考えています。また極論ですが、「言葉」が難しすぎた。これも原因な気がします。言葉を知らないと言うよりも、「言葉を扱い切れない」という気がしてなりません。敬語一つをとっても尊敬語・謙譲語・丁寧語など日本語は世界で有数の難しい言語で、現在は結局のところそれは扱い切れていないモノなのでは?結局これが物事を上手く伝えられない意思表示の障害となっているのではないか?とも感じています。これが
「こともが社会に位置づけられない」のと同様、親御さんも教育関係者も官僚も政治家も日本人全体が「言葉」が出来ないために自分自身を(世界に)位置付けられないで居るのではない」
とSartreさんが書かれた意見に対する私の感想です。
なんか見当はずれな感想を書いたかもしれませんが、今後の私の考えの中で生かさせてもらおうと思います。ご感想ありがとうございました。
by ニャソ (2006-12-12 00:09) 

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